2005年10月3日月曜日

かきオンナがやってくる!

〔ちょっとお耳に〕

こんな「かき」もあります。


戦後、日本で最初に上映された台湾映画(合作除く)は胡金銓の『残酷ドラゴン 血斗竜門の宿(龍門客桟)』で、1968年のことだったそうですが(違ってたっけ?)、それ以前から、日本でも台湾(中華民国)の映画が上映されるようにするための働きかけが、いろいろとあったようです。

呂訴上の『台湾電影戯劇史』(1961年、銀華出版部)によると、1951年には日本政府が毎年2本の中国語映画を輸入することを決定するものの、翌年、国府が中国語映画は自由中国製作(つまり、内地の映画は駄目ってことですか。香港の右派作品は含まれるけど)の映画だけにしろ、だの、うちとこ(台湾)があんたんとこ(日本)の映画を輸入するのと同じぐらい、あんたんとこもうちとこの映画を輸入しろ、でなきゃその間あんたんとこの映画も輸入しないよ、だのと言い出して、交渉自体がうまくいかなかった模様です。

で、今日ご紹介するのは、1964年10月21日付『聯合報』にあった記事。

松竹が、系列の全国800の映画館で中央電影の『蚵女』を来月から順次上映すると発表した、という衝撃(?)のニュースであります。

記事には8万米ドル(固定レートの時代です)を使って上映用に80のコピーを作成、2万米ドルで日本語の吹替を行い、宣伝費に5万米ドルを使うという、やたらにでかい話が載っており、ヒロインを演じた王莫愁の写真を宣伝用に日本へ送った、とも書いてありました。

しかし、その結果はといえば、残念ながらお蔵入りになってしまいました。
というか、この記事自体、ガセなのかマジなのかよくわからないのですけれど。

この映画が日本で陽の目を見るのは、記事が出てから33年後の1997年のことです(邦題は『海辺の女たち』)。

その後、1966年ごろには、李翰祥監督の『西施』も有楽座で上映されかけたみたいですが、これもやはりぽしゃり、そして1968年に至って、ようやく、しかしひっそりと上映されたのが、冒頭の『残酷~』だったのでありました。

おしまい。

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