2009年3月18日水曜日

台湾は招くよ (その1)

〔ちょっとお耳に〕

週刊少年漫画50周年(マガジン、サンデー)らしいっす。
せんきちの小学生時代は、「月曜:ジャンプ、水曜:マガジン&
サンデー、金曜:チャンピオン&キング」というスケジュールですた。

どうも。
トド@花粉&黄砂と格闘中です。

1960年代後半、台湾映画界には湯浅浪男監督の他にも日本人監督が招かれて、彼の地でメガホンを取った作品があります。
今回は、それらの監督及び作品を取り上げてみたいと思います。

・船床定男監督

船床監督は、1969年に『銀姑』という武侠映画(北京語映画)を監督しています。
おそらくは、東映で撮った『隠密剣士』等の作品が評価されての起用かと・・・・思います。
この映画、脚本は倪匡、撮影は陳坤厚というなかなかの豪華メンバー。
ただし、本名ではなく、

傅南篤(ふーなんどぅー)

という、船床監督の姓をもじった中国名を用いています。
この辺りの変名のセンスは、邵氏と同様ですね。
映画の製作会社である永聯有限公司は、この作品を作るために設立された会社らしく、本作の後にもう1本 『我恨月常圓』という楊麗花主演の映画を製作していますが、『我恨月常圓』の監督は、

陶南凱(たおなんかい)

と、「田中」をもじったような名前で(本作以外に監督作なし)、もしかしたら田中という姓の日本人だった可能性もあります。

・日高繁明監督

日高監督は、1868年に『劊子手』という武侠映画(北京語映画)を監督しています。
主演は、東宝と台製の合作映画『香港の白い薔薇(香港白薔薇)』や『バンコックの夜(曼谷之夜)』にも出演していた馬驥。
船床監督の変名はその姓をもじったものでしたが、日高監督の場合は、日高繁明から日の字を1字取って、

高繁明

という、さらにお手軽なネーミング。
製作会社の永裕有限公司は、合作映画がポシャった湯浅監督一行に「安藤監督主演で1本撮らない?」と持ちかけて、『霧夜的車站』を作った会社。
その当時は台湾語映画を主に作っていたようですが、1968年頃になると北京語映画が中心になっていたようです。
日高監督の作品リストによれば、1962年以降、監督は映画を撮っていませんが、なんらかの経緯によって台湾へ招かれたもののようです。
『霧夜的車站』の製作過程から類推するに、「誰か日本人の監督さんいないかなあ」と物色(?)の末、隠居状態だった日高監督を一本釣りした可能性も考えられます。

ということで、続きはまた。

(その2につづく)

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