2009年12月27日日曜日

一見鍾申(意味不明) (その3)

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@大掃除なんてくそ食らえ!です。

昨日、ラピュタ阿佐ヶ谷へ『二人の銀座』を観に行ったついでに、京王百貨店(新宿店)で開催中の「歳末古書市」に立ち寄ってみますた。
特に何を買うということもなかったのですけれど、1982年に朝日新聞社から出た『昭和写真全仕事 series4 大竹省二』をパラパラめくっていたところ、巻頭グラビア「激情の女」の中に橘ますみたんの写真があるのを発見!、即ゲットいたしますた。
写真にはキャプションがなかったものの、せんきちにはすぐに1970年に『ポケットパンチOh!』のグラビアのために撮られた写真と同時期のものだということがわかりますたです。
屈託のない笑顔が素敵な1枚ですた。

ところで、大竹省二といえば、1961年に尤敏を日本で売り出すための写真を撮っており、その中の一部が『週刊公論』(かつて中央公論社が出していた週刊誌)の表紙写真に用いられていますが、それらの写真は残念ながら収録されていませんでした。
『週刊公論』の表紙写真では、この他にも葉楓を撮影したもの等もあり、今回この本に収められた「年譜」を見たら、なるほど、かつて上海の東亜同文学院で学んでいたんですね、大竹氏は。
だから尤敏や葉楓とも、通訳を介さずに直接コミュニケーションを取ることができたのでしょう。

さて、前回の続き。

・『小飛侠』(1970年、現代電影電視實驗中心)

以前、湯浅浪男監督の作品リストの回でもご紹介した作品。
潘壘監督が設立した製作会社・現代電影電視實驗中心での映画で、中條カメラマンは湯浅監督と共にこの会社の専属スタッフでした。
この映画から湯浅監督は「湯濳」という中国風の変名(後に「湯慕華」となり、この名前で台湾に帰化)を名乗り始めますが、中條カメラマンもこの映画から「鍾申」という変名を用いるようになったようです。

『香港影人口述歴史叢書之五:摩登色彩-邁進1960年代』(香港電影資料館)所収の潘壘監督インタビューによれば、現代電影電視實驗中心の経営が傾いた原因の1つに、湯浅監督と中條カメラマンに払う給料があったとのことで、当時、この2人は台湾映画界の通常のスタッフが貰う以上の高額のギャラを取っていたであろうことが、潘壘監督の証言からは窺えます。

・『朱洪武』(1971年、台旭電影事業公司)

これも以前にご紹介した湯浅浪男監督作品(湯慕華名義)『朱洪武續集劉伯温傳』の正編。
この作品も続編同様お子様向け特撮古装片だった模様(徐大均監督。楊群、游龍、祝菁主演)で、続編の特技を黒石恒生(林黒石名義)が担当していたのに対し、こちらの正編では円谷プロから高野宏一(特技指導)、塚本貞重(操演指導)、鈴木儀雄(美術指導)が駆けつけ、特技製作に当たっています。
先だって安藤達己監督にお話をうかがったさい(詳しくはこちらをご参照下さい)、「円谷プロが特技を担当した台湾映画があるらしい」というお話をなさっていらっしゃいましたが、これがその作品だったということになります。
ということは、高野宏一が特技を担当した台湾映画はこの『朱洪武』が最初で、『海魔』は2本目の作品だったわけですね。

勉強になりました。

(つづく)

付記:顧也魯さんがお亡くなりになりました。享年93歳。1996年に出た『中華電影物知り帖』(キネマ旬報社)に顧也魯、舒適、石霊、陳述、劉瓊の対談(「激動の時代を生き抜いた老名優が語る30年代~50年代中華電影秘話」)が掲載されています。

0 件のコメント: