2009年12月30日水曜日

一見鍾申(意味不明) (その4)

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@やっぱり大掃除してますです。

例によって、前回の続き。

・郭南宏監督の作品群

そもそもこの記事を書くことになったきっかけが、郭南宏監督の『少林寺への道(少林寺十八銅人)』の撮影を中條カメラマンが「鍾申」という変名で行っていた、ということからですが、中條カメラマンが郭監督作品の撮影を担当したのは、1974年の『廣東好漢』からのようです

追記:その後、leecooさんより、1972年の郭南宏監督作品『單刀赴會』において、「鍾伸」名義で撮影を担当している、とのご教示を賜りました。ありがとうございました。

現時点で判明している郭監督&中條カメラマンの組み合わせによる作品は、下記のようになります。

1972年
『單刀赴會』(「鍾伸」名義)
1974年
『少林功夫』、『怒れドラゴン(廣東好漢)』
1975年
『少林寺への道(少林寺十八銅人)』、『風塵女郎』、『小妹(別題:『春花秋月』)』
1976年
『少林寺への道 十八銅人の逆襲(雍正大破十八銅人)』
1977年
『少林寺炎上(火燒少林寺)』、『少林兄弟(別題:『湘西、劍火、幽魂』『湘西趕屍』『劍火金羅衣』)』
1980年
『武當二十八奇』

『郭南宏電影世界』(2004年、高雄市電影圖書館)所収の「郭南宏電影世界訪談」(郭監督のインタビュー)によれば、1950年代、台湾語映画からそのキャリアをスタートさせた郭南宏監督(映画を撮る前は映画館の看板書きをしていたそうです)は、1960年代に入って北京語映画に転じると李翰祥監督率いる國聯に所属、『明月幾時圓』や『深情比酒濃』といった愛情文芸映画をヒットさせ「文藝片大導演」の称号を得ますが、その後、聯邦で撮った武侠映画『一代劍王』が大ヒットすると今度は「武侠大導演」「百萬大導演」の異名を取るようになります。

と、ここで中條カメラマンが担当した作品群を見直してみると、文芸映画と武侠映画(功夫映画)、そのどちらをも受け持っていたことがわかります(『風塵女郎』と『小妹』は、恬妞主演の文芸映画)。

今日、郭南宏監督は台湾映画史に残る偉大な監督としてその名を知られていますが、全盛期の郭監督作品の多くを中條カメラマンが担当していたという事実は、もっともっと評価されて良いのではないかと、不肖せんきちは考えています。

ところで、『少林寺への道(少林寺十八銅人)』の日本公開ヴァージョンが、当初のバージョンに増補改訂を加えた再編集版だったことは有名ですが、その日本公開ヴァージョンが生まれたいきさつに関しても、前掲の「郭南宏電影世界訪談」で詳しく述べられています。
それによると(以下、超訳&要約)、

1982年(監督のお話では「1981年ごろ」とありますが、『少林寺(少林寺)』の日本公開は1982年11月のことなので、勝手に訂正)、日本ヘラルドから香港の宏華公司を通じて「もう一度『少林寺十八銅人』を観てみたい」と連絡がきた。
実はその3、4年前にもヘラルドは『少林寺十八銅人』を配給したいと言ってきていたが、こちらの希望が50万米ドルからだったのに対し、先方は10~20万米ドルしか払えない、というので、そのときには承諾しなかった。
しかし、日本で『少林寺』が上映されて大ヒットすると、彼らは改めて「『少林寺十八銅人』は売れる」と思ったのか、もう一度観たいと言ってきたのだった。
ヘラルドから社長と国際部長が香港にやってきて『少林寺十八銅人』を観た後、「少し時代遅れの感じがする」とのことだったので、主人公の幼少時代の件を新たに撮り直して再編集するというアイデアを出したところ、ヘラルド側も乗り気になったが、あくまでも契約するかしないかは再編集版を観た後で、とのことだった。
その後、新たに撮り直したものを日本へ送ったが彼らは満足せず、もう一度20日ほどかけて新たに増補したものを日本へ送ると4日後に連絡があり、「大変いい」との返事だったので無事契約を結ぶことになった。

との由。

『少林寺』の日本公開が1982年11月3日、『少林寺への道(少林寺十八銅人)』の日本公開が1983年1月29日ですので、わずか2ヶ月半ほどの間に「ヘラルドからの要請→ヘラルド上層部への試写→再編集その1→ボツ→再編集その2→OK→日本公開」という過程を辿ったことになります。
黄家達の少年時代の場面に『八大門派(少林寺への道3)』の映像が流用されているのは、そんなタイトなスケジュールのせいもあったのでしょうか。
この辺り、お詳しい方にぜひとも再検討していただければと思います。

(つづく)

0 件のコメント: