2010年1月23日土曜日

東寶豓星 秋子  補遺

〔えいが〕〔ちょっとお耳に〕


どうも。
トド@毎日にんにく食べてますです。

さて。

『復仇』の邦題(『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』)が長いなあというお話を前の記事でいたしましたが、「長いといえば、清水邦夫の戯曲のタイトルも長いのが多かったよなあ」と思い出し、ちょいとピックアップしてみますた。

『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』
『あらかじめ失われた恋人たちよ』
『海賊、海を走ればそれは焔……』
『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』
『泣かないのか?泣かないのか一九七三年のために?』
『ぼくらが非情の大河をくだる時』
『ぼくらは生まれ変わった木の葉のように』
『夜よ おれを叫びと逆毛で充す 青春の夜よ』


不肖せんきち、高校時代は演劇部所属(!)でして、『ぼくらは生まれ変わった木の葉のように』なんぞを先輩方が本読みするのを傍らで聞いておりましたが、皆さん、正式名称だとあまりに長すぎるので単に「木の葉」(のこ←古い)とだけ呼んでおりました。

てなところで、本題。

昨年の4月、かつての東宝スター・若林映子が主演したイタリア映画("Akiko")と西ドイツ映画("Bis zum Ende aller Tage")が台湾で公開されていた、というお話を書きましたが、昨年暮れに出た『映画論叢』22号に掲載された「東宝プログラムピクチャーの世界① 東宝の生んだ国際スタア・若林映子インタビュー」に、上記作品の詳しいストーリーや撮影時のエピソードがありました。

それによると、"Bis zum Ende aller Tage"(遥かなる熱風)で彼女が演じたアンナ・スーは、中国人ではなく中国人と日本人のハーフで、撮影は香港ロケの後ハンブルグの撮影所で続きの撮影を行い、他にもペルゴンという島(おそらく、ここがアンナ・スーと結婚するドイツ人男性・グレンの故郷という設定だったのでしょう)でも2週間ほどの撮影を行ったそうです。
また、この映画のオファーは東和の川喜多長政経由によるものだったとの由。

なるほどねえ。

インタビューの最後には、


やはり私の中では、東宝の協力で抜擢されたヨーロッパの三作品(上記2作品の他にイタリア映画"Le Orientali"・せんきち注)に出演できたことが大きいですね。今はミニシアターがたくさんあって、世界中の映画が輸入されていますけれど、当時はまだそういう時代ではなかったので、日本では公開することが出来ませんでした。(略)映画、娯楽の価値観が大きく変わってしまいましたが、ヨーロッパの三作品を見る機会があれば、私の中でかけがえのない時間の映像ですから、ぜひとも見てみたいと思います。(以下略)


という若林映子のコメントがありましたが、当時、お隣の台湾ではこれらの作品が公開されていたことを考えると、なぜ日本では公開できなかったのかという疑問が再び生じてきます。
そもそも、なにゆえに東和はこれらの作品を配給しなかったのでしょう。
特に"Bis zum Ende aller Tage"(遥かなる熱風)は川喜多長政経由で出演が決まった作品ですから、彼が指示さえすれば日本での公開はそう難しいことではなかったと思うのですが。

なぜなんでしょう?

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