2010年5月15日土曜日

神のいない三年間 (Tatlong Taong Walang Diyos)

〔えいが〕


1976年、フィリピン(NVプロダクションズ)。マリオ・オハラ(Mario O'Hara)監督。
ノーラ・オノール(Nora Aunor)、クリストファー・デ・レオン(Christopher De Leon)、ラファエル・ロコ・Jr(Rafael Roco Jr.)他。

どうも。
トド@耐乏生活中です。

さて、昨日は寒かったので、フィルムセンターへフィリピン映画『神のない三年間』を観に行ってきました(おいおい)。
混んでいるといけないなあと思い、開場時間(18:30)よりもかなり早めの時間(17:15)に到着したところ、けっこうな人たちが既に並んでいました。

「ああ、やっぱり。早めに来てよかった」

と思っていたら、17:30になって

「お待たせしました。地下の小劇場で上映される『イワン雷帝(Иван Грозный)』の開場です」

とのアナウンスがあり、待っていた人たちはみんな地下へ。
残されたのはせんきちとその他数名のみ。

なんだ、違ったのか。

とまあ、そんなこんなで1番乗りとなってしまいましたが、上映時間(19:00)の頃には客席も范文雀、もとい、半分弱が埋まっていました。

この日は、上映前に本作のフィルムの保存に携わった福岡市総合図書館の八尋義幸氏の解説があり、八尋氏の口からフィルム保存のいきさつ(ネガは既になく、褪色が進み劣化したプリントが残るのみだったが、この映画の権利者の1人である主演女優のノーラ・オノールの了解を得てデュープ・ネガの作成を行った&その過程でのエピソード)が縷々語られましたが、残念だったのが会場に居合わせた心ない約2名の暴走老人客による失礼な野次(「つまらない話はやめてとっとと映画をやれ!」云々)。
八尋氏も遠路はるばる東京までやってきてそんな言葉を浴びせられるとは夢にも思っていなかったでしょうし、われわれ他の観客やフィルムセンターの職員の方も怒り心頭でした。

てな次第で、ちょっぴり、いや、かなりいやーな気分になったところで上映開始。

物語はこちらの解説にもある通り、太平洋戦争下における日本軍将校とフィリピン人女性の恋を描いたものです。

1941年12月、太平洋戦争が勃発、フィリピンにも日本軍が侵攻してきます。
とある村(場所失念)に住む若い女性・ロサリオ(ノーラ・オノール)にはクリスピン(ラファエル・ロコ・Jr)という恋人がいましたが、彼は抗日ゲリラに加わるため村を去っていきます。
フィリピンのアメリカ軍が全面降伏すると、日本軍を恐れた村人たちは次々と避難していきますが、ロサリオは父の方針でそのまま村に留まることとなりました。
ある夜、道に迷った日本軍将校・マスギ(クリストファー・デ・レオン)とその友人で医師のフランシス(ペキェ・ガリャガ〔Peque Gallaga〕)がロサリオの家にやって来ます。
ロサリオの父は彼らに酒を出してもてなしますが、酒に酔ったマスギはロサリオに目を付け、拳銃で家族を脅すとロサリオを無理やり犯してしまいます。
その後、マスギは衣服や食料を持ってしばしばロサリオの家を訪れるようになり、ロサリオの両親は彼に心を許すようになりますが、ロサリオは絶対に彼のことを受け入れませんでした。
やがてロサリオの妊娠が発覚すると、ロサリオを愛し始めていたマスギは彼女に結婚を申し込みます。
マスギは抗日ゲリラの疑いをかけられ捕らえられていたロサリオの父を釈放させるなど、家族にさまざまな便宜を図りますが、周りの人々は「裏切り者」とロサリオたちを罵るようになるのでした。
月満ちてロサリオはマスギとの子供を出産、このとき、ロサリオはフランシスからマスギの過去を聞かされます。
マスギはマニラで商売をしていた日本人男性とフィリピン人女性との間に生まれたハーフ(ゆえにタガログ語が堪能)でしたが、真珠湾攻撃の直後、日本人だからという理由で家族は刑務所に収容され(この辺りの事情はよくわからんのですが、アメリカにおける日系人と同じ状況だったのでせうか←せんきち注)、マスギのみが脱走に成功したものの彼の両親はフィリピン人の囚人に殺害されてしまい、以来、同胞である母親を殺したフィリピン人を憎むようになり、日本軍に志願したというのです。
しかし、ロサリオに出会ってマスギはかつてのような人間性を取り戻したのだ、とも。
悩み苦しんだロサリオは子供を殺そうとするものの果たせず、マスギと結婚することを決意しますが、そんな折、クリスピンが戻ってきます。
ロサリオの母から全てを聞いたクリスピンは彼女を許すことができず、ロサリオから送られたロザリオを引きちぎって再び戦地へと赴くのでした。
ロサリオとマスギは教会で結婚式を行いますが、「対日協力者」の烙印を押された彼女の両親と弟は、抗日ゲリラによって惨殺されてしまいます。
お互い天涯孤独の身となったロサリオとマスギの間には、本当の愛情が芽生え始めていました。
しかし、日本軍の戦況は日に日に悪化、アメリカ軍が再びフィリピンを奪還すると、軍と共に敗走するロサリオとマスギは抗日ゲリラの襲撃を受け、ジャングルの中を逃げ惑うことになるのでした…。

映画のタイトルは日本がフィリピンに軍政を布いていた3年間、神は不在だったのかという本作のテーマに基づくものですが、「神の不在」というテーマは遠藤周作が『沈黙』で描いた「神の沈黙」とも重なるものと言えるでしょう。
また、ヒロインの名がロサリオ(Rosario)というのも、このテーマに関連するネーミングと考えられます。

予備知識も何もなしに観たので、1970年代に台湾で量産された抗日映画と同じ類の作品かと思っていたところ、それらの作品群とはかなり異なる色彩を持つものでありました。
また、日本軍将校に無理やり妻にさせられる現地女性というパターンは、以前ご紹介した香港映画『紅葉戀』にも登場しましたが、その作品とも本作は一線を画しているように思われます。
ロサリオは初めこそマスギを憎むものの、家族が抗日ゲリラに殺されてからは(どんな理由があるにせよ)同胞が同胞を殺すことに対して疑問を抱くようになり、同じように母親を殺されたマスギに心を寄せるようになります。
また、マスギも最初はとんでもない畜生ですが、そうなったのには深いわけがあり、ロサリオと夫婦になってからは、戦闘で傷ついたクリスピンを助けたばかりか、アジトに戻るクリスピンに自分の銃まで与えてしまうのです。
さらに、アメリカ軍に自分たちの運命を託そうとしているクリスピンに対して、「アメリカはフィリピンを独立させるだろうが、自分たちの力で独立しなければ本当は駄目なんだ」とかいう意味の台詞をマスギが話すのは、独立してもなおアメリカの強い影響下から脱することができなかった当時のフィリピンの状況(今もそうかしらん)を反映しているのかなあとも思いますた。

最終的に「神の不在」に関しては、「実はそうではなかったのだよ」という答えらしいのですけれど、その辺りどうもカトリックではない(プロテスタントでもないけど)不肖せんきちには若干わかりづらい点でもありました。
ただ、作品全体を通じて「(神の)赦し」とでもいうべき精神がその根底には流れており、それがこの映画を単なる抗日映画では終わらないものにさせている要因の1つではないかと思いますた。

で。

上映後、件の暴走老人の内、1名はすばやく逃走してしまったため、残る1名に対して職員の方や他の観客の皆さんが注意をしたのですが、そのおっさんたら口答えするわ職員の方の胸を小突くわで、はっきり言って、あそこまでやられたら究極の手段(110番通報)に出ても仕方ないのではないかと思うほどでした。
本当に悲しいことですが。

ところで、映画の話に戻ると、この作品、昨年の暮れには本国でDVD化もされたようですけれど、こちらの映像(テレビ放映時のものらしい)を観ると、この日観た退色しまくりのプリント(前述した通り、現存する唯一のプリントが既に退色していたため)に比べるとずいぶん色味が残っています。
どこかで別に保存されていたプリントがあったのでせうか…。

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