2011年8月5日金曜日

原びじつかんへ再び行ってきました

〔ちょっとお耳に〕〔しようもない日常〕


どうも。
トド@お金がないです。

本題へ行く前に、今日も小ネタ。

先日、久しぶりに横浜中華街へ行きましたが、何気なく中華街大通りの「インポート西芳」へ入ったところ、レジ上に李麗華、林黛、丁寧のポスターが貼ってありました。
この手の店によくあるオーナー(無愛想なおじさん)の趣味かと思って眺めていたところ、その横には、

1枚100円

の札が。
思わず「それ、買えるんですか?」と聞いたところ、「ポスター1枚100円」とそっけない答えが返ってきました。
というわけで、取るものもとりあえず1枚ずつ購入(たったの300円!)しましたが、李麗華や林黛はともかく、丁寧のポスターって、なんだか渋いですなあ。
見たところ在庫はあとわずかのようでしたので、お好きな方は急いで中華街へどうぞ。

さて。

先月31日、原びじつかんで開催されたウォン・ハンミン(黄漢民)さんのスペシャルトークに行って参りました。
当日の模様は、例によってcinetamaさんのブログ「アジア映画巡礼」に詳しいので、またぞろそちらにおんぶに抱っこいたすことにして(お手間かけます)、いつものように気付いたことだけを手短にメモしておきますです。

・『阿片戦争』のチラシ
昭南島時代の映画館に関する解説の中で紹介されたマキノの『阿片戦争』(1943年)のシンガポール上映時のチラシ。
調べてみると、1943年6月に共榮劇場で上映されていました(1943年6月12日付『昭南日報』による・注)。
共栄劇場では他にも『マレー戦記』(1943年2月)、『シンガポール総攻撃』(1943年9月)、『奴隷船』(1944年1月)等が上映されました。

・『勝利の日まで』のチラシ
これも上記のチラシ同様、昭南島時代に上映された成瀬巳喜男の珍作(でいいのかしら)『勝利の日まで』(1945年)の中文版チラシ。
中文タイトルは『勝利前奏曲』でした。
上映館は昭和劇場(娛樂戲院、Alhambra)と帝國館。
またまた調べてみたところ、1945年5月、昭和劇場における『狸御殿』の併映作品に『勝利の日』という映画があり、どうもこれではないかと思われます(1945年5月3日付『昭南新聞』による)。
ただ、『勝利の日まで』が8巻なのに対し、この『勝利の日』は3巻で、どうやらレビューシーンだけを勝手に抜き出して繋いだ代物だった感じです。
昭和劇場は大東亞劇場(國泰、Cathay)や芙蓉劇場のような皇軍専用ないしは邦人専用の映画館ではなかったようで、現地の人たちにもわかるようにレビューシーンのみのヴァージョンに(勝手に)再編集したのかも知れません。
その点について、もう少し調べてみますです。
現地仕様といえば、『五人の斥候兵』もシンガポールでは「マライ版」が上映されたようで(1943年2月15日付『昭南新聞』による)、まさか舞台がマレー半島に変身していたりはしないかと勝手な想像をいたしております。

追記:この場合の「マライ版」というのは、どうやら「マレー語版」のことだったようです。


ちなみに、その当時上映されていた中華圏の映画についてわかったものをちょこっとだけご紹介すると、

『西廂記』(1940年、國華)→南洋劇場(1942年5月)
『美人計』(1941年、南洋)→東方劇場(1942年5月)
『白雲塔』(1941年、南洋)→大和劇場(大華、Majestic。1942年5月)
『孤兒救祖記』(1941年、南洋)→大和劇場(1942年7月)
『黑衣盗』(1941年、藝華)→東方劇場(1942年8月)
『萬紫千紅』(1943年、華影)→昭和・大和・東方劇場(1945年5月)※「日華合作」として大々的に上映
『夜長夢多』(1943年、華影)→昭和劇場(1945年8月)

南洋の作品が多いのは、邵逸夫が昭南華僑協会の理事を務め、日本軍にがっちり食い込んでいた(であろう)邵氏兄弟の同族会社だったからでしょう。
彼らとしては心ならずも対日協力をしたのでしょうが、小出英男の『南方演芸記』(1943年)の記述から伺えるのはむしろ「金儲けの為に利用できるものはなんでも利用する」というしたたかな姿勢です。
戦後、東京で第1回東南アジア映画祭が開催されたおり、臨席した当時の皇太子(今上天皇)の前で「バンザイ」を叫んだというのも、「利用できるものはなんでも利用する」姿勢の表れだったのでしょうか。

・おまけ 前回の宿題の答え合わせ
前回訪れた際の記事で、「金城(金都)戲院(Golden City Theatre)で上映されている映画が『二郎神楊戩』ならば湯浅浪男(湯慕華)監督作品がシンガポールでも上映されていた!ということになる」云々といった内容のことを書きましたが、今回拡大鏡持参で再確認したことろ、案の定『二郎神楊戩』でした。
ピンク映画の監督からお子様向け特撮時代劇の大家に変貌した湯浅監督、シンガポールにも進出していたのね。
この写真、のどから手が出るほど欲しいです。

それにしても、これらの貴重なコレクションを最大限に活用して方保羅(Paul Fonoroff)氏の『圖說香港電影史』みたいな『圖說新加坡電影史』や、葉龍彥氏の『台灣老戲院』みたいな『新加坡老戲院』が出版できないものでしょうか。
コレクションの単なる写真集でもいいです。

出版、プリーズ。


(ひとまづおしまい)

注:参照した新聞はいずれも『昭南新聞 1942~1945 日本占領下のシンガポール 重要紙面・縮刷版』(1993年、五月書房)による。
なお、同書の解説ページには『シンガポール総攻撃』上映時の英文広告が掲載されていますが、「『シンガポール攻略戦』の記録映画上映の英文広告」と誤ったキャプションが付されています。ついでに言うと、上映館も間違っています(誤:協栄、昭南→正:共栄、昭和)。

・しつこくおまけ
昭南島時代に上映された日本映画(わかった分だけちょこっと)。

『マレー戦記』(1942年、日本映画社)→共榮・昭和劇場(日本語版。1943年2月)、大和・東方(英語版。1943年2月)
『五人の斥候兵』(1938年、日活)→富士劇場(マレー語版。1943年2月)
『東洋の凱歌』(1942年、比島派遣軍報道部)→大東亞劇場(1943年2月)
『水戸黄門漫遊記』(『水戸黄門漫遊記 日本晴れの巻』ないしは『水戸黄門漫遊記 東海道の巻』。1938年、東宝)→芙蓉劇場
『奴隷船』(1943年、大映)→共榮・昭和劇場(1944年1月)※マリア・ルス号事件を扱った映画。華人に見せようという意図が見え見え。
『戦ひの街』(1943年、松竹)→帝國館(1944年1月)
『東京の女性』(1939年、東宝)→馬來劇場(1944年1月)
『微笑の国』(1942年、日活)→共榮・昭和劇場(1944年1月)
『鞍馬天狗』(1942年、大映)→大東亞劇場(1945年2月)、帝國館(1945年8月)
『キャラコさん』(1939年、日活)→芙蓉劇場(1945年2月)
『母校の花形』(1937年、日活)→昭和劇場(1945年2月)
『出征前十二時間』(1943年、大映)→帝國館(1945年2月)
『マレー戦記 第二部 昭南島誕生』(1942年、日本映画社)→大世界文化映画(1945年2月)
『ハナ子さん』(1943年、東宝)→大東亞・芙蓉劇場(1945年3月)
『風の又三郎』(1940年、日活)→昭和劇場(1945年3月)
『土俵祭』(1944年、大映)→大東亞・芙蓉劇場(1945年5月)
『兄妹会議』(1942年、松竹)→大東亞劇場(1945年5月)
『秀子の応援団長』(1940年、南旺)→帝國館(1945年5月)
『次郎物語』(1941年、日活)→馬來劇場(1945年5月)
『河童大将』(1944年、大映)→大東亞劇場(1945年5月~6月)
『海ゆかば』(1943年、大映)→芙蓉劇場(1945年5月~6月)、帝國館(1945年7月)
『愛国の花』(1942年、松竹)→昭和劇場(1945年5月~6月)
『四つの結婚』(1944年、東宝)→馬來劇場(1945年5月~6月)
『旋風街』(1941年、新興)→帝國館(1945年5月~6月)
『母子草』(1942年、松竹)→帝國館(1945年7月)
『希望に立つ』(1938年、松竹)→馬來劇場(1945年7月)
『南の風 瑞枝の巻』(1942年、松竹)→大東亞劇場(1945年8月)
『瞼の母』(1938年、東宝)→芙蓉劇場(1945年8月)
『二刀流開眼』(1943年、大映)→昭和劇場(1945年8月)
『父ありき』(1942年、松竹)→帝國館(1945年8月)
『日本の母 母の巻』(1939年、大都)→馬來劇場(1945年8月)

※1943年2月15日付『昭南日報』によると、これら劇場での上映の他、巡回映画班による一般無料公開映写という上映会もあったようで、コタラジヤラマイ學校校庭・ゲラン・ジユチア廣場・ブキテマ三叉路附近廣場(いずれも原文ママ)で『マレー戦記』等の屋外上映会が行われています(1945年2月)。

追記:補遺を執筆いたしました。そちらもご参照下さい。

 

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